もちのシャドール考察

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【遊戯王Advent Calendar22日目昼】「カードを愛する」とは

「このカードが俺の嫁なんだよね」

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 遊戯王関連のTwitterアカウントをフォローしていると時折見かけるであろうこの言葉は、キャラクターに注ぐ愛の形の終着点の一つであると言えよう。誰がどのキャラクターを「嫁」にしているかは様々であるが、いずれにせよそのキャラクターの「マニア」になった諸氏は、何らかの狂気に満ちた行動を開始することになるだろう。私にとっては畏敬の対象たる「エルシャドール・ミドラーシュ」であるが、傍観者にとってそれがマスコットを扱うように見えたとしても些末な問題。要は自分が表したい形でその愛を示せれば十分なのだ。

 さて、時折そこに疑問を抱く方々が現れる。好奇心旺盛な方々曰く、

「それ、何の意味があるんですか?」

「どうしてそのキャラクターをそんなに愛しているんですか?」

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 とのこと。さて、マニアの皆様は時折この問題を叩き付けられて辟易とすることだろう。なぜというに、大部分の「好奇心旺盛マン」は、本当に興味があるから訊いているのではなく、自分とあまりにも異なる価値観に恐怖して思わずそんな言葉を漏らしているからである。つまり単なる自己防衛であることが多いのだ。

 しかし時折マニア側も気になるだろう。何を以てキャラクターを愛すると言えるのか、自分はどのように愛しているのか。客観的な分析ができていると誰かに説明するにあたってやや段取りを立てて説明できよう。

 本記事では、そんな「狂気」に対して光を当てていく。文章がもっと狂気に染まっているかもしれないのはご了承願いたい。

はじめに

 当記事は遊戯王Advent Calendar企画に参加するために書かせていただいたものでございます。他の方がお書きになられた記事はどれも素晴らしゅうございますので、ぜひご覧くださいませ。私にバトン渡してきた方とかベテランアドベントカレンダラーですし(なんだそれ)

 以下はAdvent Calendarのまとめ記事でございます。こちらから様々な記事に飛ぶことができます。

adventar.org

adventar.org

 昨夜にあがりました記事はベテランアドベントカレンダラーであるPman氏によって不思議な世界観で描かれました「賢者の贈り物」でございます。彼、もといスケバンぴま子の観客巻き込んでの芸は絶妙ですので、ぜひともご一読くださいまし。

crowingspear.hatenablog.com

 それでは、この皆様がおつくりになられた素晴らしいカレンダーに精一杯泥をかけるつもりで、これよりしばしの間失礼いたします。

 

愛には種類がある

 大前提として、「キャラクターを好きになる」というものには種類がある。そして「自分が注げる愛のカタチ」にも種類がある。ここの分類を避けて以降を語ることは非常に難しい。この故に、理論的になるが「愛を分類」したいと思う。

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愛には理由がある

 まずは「キャラクターを好く理由」である。こちらは非常に多岐に亘るため、ここではあくまでも一例を挙げる:

  • マスコットとして
  • 恋愛対象として
  • 興味の対象として
  • 最も好きなものの代替として
  • 自己投影の対象として
  • 自分の愛を自覚するための「貯金箱」として

 などがあろうか。下に行けば行くほど「冷酷さ」が見えるかもしれないが、これは決して愛を貶すためではなく、あくまで人間がキャラクターに注ぐ愛にはそういう形も有り得るということを示しているに過ぎない。何なら私は「実在する恋人に注ぐ愛が、自分の性格の良さを見るためのバロメーターである」と言われても、同意できるかはさておき納得は出来る。

 マスコットというのは分かりやすい。アイドルを愛するように、自分とは相容れないことを確信しつつ、「癒し」などのために愛を注ぐということだ。一般的な好意はここに入るだろう。「彼かっこいいよね~」みたいな話もここに該当する。

 恋愛対象は少しややこしくなる。性的な目で見ているか否かに依らず、そのキャラクターと結婚したいと思うようになるとここに該当するだろう。つまり「生活」に食い込んでいるということだ。

 興味の対象というのは、例えば「このキャラクターのこの性格、好ましい」というものもあれば、「このキャラクターのこういう設定が好き」という風に、キャラクターを要素ごとに分解して理屈をつけ、その中で自分に合う部分を見つけることだ。

 代替物というのはいくつか挙げられるが、「このキャラクター、昔好きだったあの女の子に似ている」とか「このアニメで言うと○○が好きだな、『俺の嫁』と似てるし」といったように、別にもっと好きなものがあり、それらとの共通点でもって好ましく感じるということだ。

 自己投影の対象の話はやや難しいが、有名なネットミームを持ってくると分かりやすいだろうか。「キリトかなーやっぱりww」、あるいは「なろう系主人公」と呼ばれるものたちである。自分をそういったキャラクターに投影することで鬱屈とした現状に何らかの風穴をあけたいという欲求から来るものだ。

 最後の話だが、いわば自己顕示欲である。「俺の愛はこんなにすごいんだぞ!」という表明でもって自尊心を満たしたいというところから来る。かつての私はそうだった。誰よりもシャドールアイテムを集めているという自負でもって心の安寧を保っていた節があるし、またそれをこれ見よがしに公表してもいた。(厳密には他にも理由があるのだがその辺は脇道に逸れるので省略。)

 このように、キャラクターにどのような好意を向けているか、というのは一つ大事な分解要素になる。愛には理由があるのだ。

愛にはカタチがある

 次に語るのは、「愛のカタチ」である。こちらはおよそ分けやすいが、少し複雑な話もあるので深く語りたい。

  • 感情的な要素が強い愛
  • 論理的な要素が強い愛

 この二種。言い方を変えるのであれば、

  • 好きである理由が説明できないからこそ愛である
  • 好きである理由が説明できるからこそ愛である

 の二派だ。ここについて、どちらが素晴らしいかを議論することは無価値だ。私については、こんな文章を書いているので「どうせお前は後者だろ」と思われるかもしれないが、実際のところは「感覚的にキャラクターを愛することが多い」人間だ。感覚的に好むことができるため瞬発力の高い愛の萌芽を満喫することができるが、その萌芽が起こった理由を後々になって自分なりに解釈できるため都合が良い。ただ自分がなぜ今そのキャラクターを愛しているかについてはその時点では解せておらず、数か月と経った後に「ああ、きっとあの時の私はこういうところを好きになったのだろうな」と追体験しているというのが実態だ。

 話を戻そう。なぜここについて語りたいのかと言うと、「感覚的な愛をもつ人間が誰かに自分の愛を説明したい場合にひとつ拗れるから」なのだ。そう、溢れる愛は時折「誰かにこのキャラクターの良さを伝えなきゃならない」という使命感になるのだが、これがどうにも「厄介オタク」を生み出してしまうようなのだ。

 好きである理由が説明できないのに、誰かに良さを伝えたい。そしてこういう時に起こる困った事象が、「私がこのキャラクターを好きになったのに理由がないなら、あなたもきっと何の説明もなく好きになれるよね」という確信がうまく機能しないのだ。これが軋轢をうむこととなる。「押し付け」の好意になってしまうのだ。

 理屈っぽい愛し方をする人についてだが、こちらもまた別のやっかみを生んでしまうことがある。それが「なぜこんなに分かりやすい理由があるのに私と同様に愛してくれないのか」という思念である。先ほどの「感覚的な愛を好む派」に比べるとまだ事件を起こす確率は低い(というのも、明確に自分が好いている理由が分かっているため、それが相手の琴線に触れないと分かれば下がることが可能だからだ。)のだが、それでも行き過ぎればこれまた「押し付け」の好意になりかねないし、なんならロジックハラスメントにすらなりうる。

 愛にはカタチがあるのだ。

愛には大きさがある

 そして「愛の大きさ」が別の要素として挙げられる。ニコニコ大百科というサイトにて「もうお前の嫁で良いよ」という記事が見つけられるのだが、それはすなわち「コイツの愛の大きさは凄まじい」とマニアの方々が見做したと言えるだろう。それは例えば、途方もない努力の結晶を見せたり、那由他のごときお金でもって何かを買い集めたり。自分の存在の大きな一部分をそのキャラクターへと昇華できるのは、まさに狂信的であり、まさに偏愛と言えるだろう。私はそういう「狂った人」が大好きだ。

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 しかし「愛は大きいから正義」ということもない、と私は思いたい。全身全霊の愛を注ぐ人と、微かであれど純度の高い愛を注ぐ人の間に優劣などないと私は信じたいのだ。もしそこに優劣があるのであれば、それぞれのキャラクターを愛せる人は世界に一人だけになってしまう。そんな悲しいことがあって良いだろうか。私はそうは思いたくない。「偶像」は、愛を注がれることで美しくなる。それがたとい小さなものであろうと。それがたとい邪な思いが混じっていたとしても。誰かの愛によって輝けるはずだ。

 だからこそ、愛の大きさは、愛を調べるにあたって大事であれど、その妥当性を示すものとは思いたくない。

 畢竟するに、愛には種類があるのだ。理由、形、大きさでもってある程度の仕分けができよう。

愛には限度がある

 もう少し不思議な、それでいて非情な話に行こう。人間が持てる愛には限界がある。ロマンのかけらもないことを申し上げるが、愛を感じるのは脳である。脳内物質という形の「ソレの魅力」を認知し、「愛」となるのだ。すると一つ摂理が生じる。単純に考えて「愛製造機」「愛受容器」には数が限りがある、ということだ。

 ここからどんな話題に派生するかというと、「個人によって持てる愛の総量が異なる」ということ。愛製造機の数も、それを受容できる場所の数も、人によって全く異なるのだ。ここから、「俺様の愛に付いてこない奴は愛が足りない」などというのは、非常な暴論であるというのが分かるだろう。

 というかそれなら、ずっと全力で愛さなければ不適格になってしまう。今まで全力で愛していた人でさえ、ほんの一瞬休むことが許されない地獄のような状況に成り果てる。それはもはや愛ではなく、義務であろう。わずかなやすらぎも許されず、ただ修羅道にのみ身を置くことが愛なのであれば、もはや趣味などこの世から消え去っている。

f:id:mochimochiMidra:20211221222906p:plain<10年続けたら心が摩耗しちゃう

 そう、愛には限度がある。

 

愛には方向がある

f:id:mochimochiMidra:20211221224913p:plain<ワタシハ、アイヲアゲナイ

 そしてもう一つ。愛には方向がある。これはいわゆる「同担拒否」などを生み出してしまう要因であるが、「愛は必ずしも双方向ではない」にもかかわらず、自分が愛を注いだ際に見返りを求めてしまうことが原因と推測している。

 私が思うに、いわゆる非マニアの人間がマニアの人間と相容れない最大の要因がここなのだ。非マニアの人は「愛が自分から注ぐだけである」ことを我慢できないのだ。これは非マニアの方々の我慢が弱いのではなく、純粋なマニア側のたがが外れているというのが正解である。

 我々が愛するのは「偶像」であり、愛は返ってこない。物理的に反応が可能な形であろうとも。しかし日常世界で自分が好意を示すと往々にして返ってくるがために、その辺りの割り切りが行われず視野狭窄に陥るのであろう。まあ、そういう意味では宗教に時折見受けられる「偶像崇拝の禁止」と言うのは妥当なのかもしれない。形あるものへの信心は歪む危険性があるのだから。余談だが近頃のVtuberというのはこの辺りがかなり曖昧になっており、偶像が自分の言動に逐次反応してくれるという、「双方向の愛」もどきの現象が見受けられる。この故に市場が拡大していくのであろう、と思う。念のため申し上げておくが、これは決して各配信者様の努力を否定するものではない。しかし少なからず距離感が今までの偶像と異なる存在となるため、第三の尺度が改めて求められることにはなりそうだ。

 

 そう、愛には方向がある。

 

その愛は万人受けなどしない

 まず認めるべきことがある。マニアの愛は狂気である。狂気ゆえに、誰しもが理解してくれるなどと烏滸がましいことを思ってはいけない。理由があろうとなかろうと、同類であろうとなかろうと、その大きさが凄かれど。だいたいは理解されないのだ。普通の人間同士の恋愛でさえ、「何であの人ってあんな奴と結婚したんだろう」なんて言われることがあるほどなのだ。ましてやマニアの愛は偏愛と呼ばれるものであり、それに対して理解を要求してはいけないのだ。弾圧されるのを甘受せよというのではなく、自分のたがが外れていることを知覚して、一定の線引きを行うべきであるという話だ。

 私は決して自分が持つ「エルシャドール・ミドラーシュというキャラクターへの感情」を誰かに強要したことはないし、ましてやそれ以外の愛し方を否定したことなどない。それは私からすれば当たり前なのだ。どうして自分が抱える異常性の全てを誰かに見せる必要があろうか。それどころか、見せてはいけないものとすら言える。見せても良いものと見せてはいけないものとは、きちんと区別しなければならない。

 しかしその偏愛を否定されたいとも思わない。なので否定された場合は、愛想笑いをしながら心の中であかんべーをすれば良いのだ。そして自分がされたくないことを他人にはしてはいけないのだから、当然私は誰かの愛を否定してはいけない。否定されたくないならば他者を否定してはいけない。孔子の時代から受け継がれている大事な言葉、思想だ。

 ただし一つだけ例外がある。私は「同担拒否」なる人々のことは好かない。これは「他人の愛を否定するということは、お前は自分の愛を否定されたいのか?」と思うからである。嫉妬するのは結構なことだが、表に出してしまえばそれは「他人に自分の愛を否定されても良い」という自己表明になってしまう。否定されたい程度の偏愛ならば早く逃げたほうが良かろう。人間性をある程度棄却した先が、マニアと呼ばれる人種なのだから。

それでも理解されるためには

 そんな地獄の人種に成り果てても尚自分の愛を現世の人々に伝えたい場合の話をしよう。まずは自分の狂気のうち、出来る限り薄いところを見い出そう。まさに「一般受けするワード」を準備するのだ。そこでギブアップする人には理解を求めてはいけない。それはあなたにその愛を捨てるよう強要してくる人種と何ら変わらぬ、強欲さと横暴さが顔を出しているに過ぎない。

 そこから、少しずつ深淵に導いて行こう。そして相手がどういう愛を持っているのかも、その「布教」における相手の反応から察していくとしよう。ロジックなど興味がない人であれば、深い説明をするのではなく第一印象でその人の心に刺さることを祈るしかないし、また自分と愛の形が違いそうな場合は、出来る限りそちら側に寄せた宣伝をしていくしかない。

 乱暴にまとめてしまえば、最大限の宣伝とは「自分の愛の形を出来る限り相手に見せないこと」になるのだ。客観的にそのキャラクターを愛する理由を語れる能力を培うにあたって、自分が真に狂っている側面はかえって邪魔になる。

 それはそうだろう。喧伝相手は今現世にいるのだから。あなたがいるであろう深淵からは程遠いところに手を伸ばそうというのだから、ひとまず光が当たっても問題ないように擬態をせねばならない。愛を語るというのはそういうことである。

 

終わりに

 愛の理由。愛の形。愛の大きさ。愛の限度。愛の方向。五要素でもってキャラクターへの愛を長々と語ったが、十把一絡げにまとめてしまうならば「理解されたいと思うならば会話相手をよく見よ」に尽きる。真にそのコンテンツを広めたいならば、「自分」を如何に隠すか、あるいは「自分」を如何に表明すべきか、というのをきちんと制御できなければならない。

 

 私はいわゆる「怪文書」が好きだ。気持ち悪いとさえ思える文章にこそ、人間というものの本質が詰まっていると確信しているが故に。ただしそういったものは一般受けしない。だからこそ「相手が求めるもの」「相手が同意できそうなもの」を見い出して、少しずつ、絡め取って、行くのが、布教者たるものの試練なのである。

 

                           以上

 

 

 さて、私の次に記事を掲載なさいますのが、こちらのブログ様を管理していらっしゃいますリゲル様になります:

ssrigel.hatenablog.com

 

 私のような怪文生成機と違って二回もアドベントカレンダーに参加してらっしゃる猛者でございますので、きっと素敵な気持ちになれることでしょう。

 というかテメーみたいな乱文野郎がこんなクライマックス寸前のタイミングで書くんじゃねーよと石を擲たれそうでございますね、痛いのは嫌でございますのでこれにて失礼いたします。それでは。

 

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 エルシャドール・ミドラーシュはいいぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

【以下閲覧注意】

【本題は終わっているので、これ以降は不要です】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『で、本音は?』

もち「うーん、ちょっと分かってもらえない話をするのだけれども、私ミドラーシュに性的な目を向けないのよね。ミドラーシュのエロ同人買ってみたこともあるんだけど勃たなかったし」

『何で?』

もち「宗教家って天使に欲情しないじゃん」

『まあ、しないけど。え、信仰って言ってるの本当なの?』

もち「そもそも私がミドラーシュを好きになった理由って、名前が私の目標であった科学者に相応しい『探し求める者』であったことと、神聖なものが汚された後に残る『本質』が気になったことなのよ」

『えーと?』

もち「つまり、名前に惹かれて、歴史に惚れた」

『もうちょっと分かりやすく言いなよ』

もち「ここからは趣味嗜好の話になるからアレなんだけど、私が好きなキャラクターって両面性があるキャラクターなのよ。普段は優しそうでも陰では苛烈とか、普段は清楚そうな人がゴミ屋敷に住んでるとか、そういう致命的なまでにズレているところがあるキャラクターが、時折すごく好きになる」

『わりとずれてるね』

もち「ミドラーシュになる前の存在に触れると、ガスタに登場した『ガスタの巫女 ウィンダ』なわけで。自然に愛され、神に触れることすら可能なほどに信心深い「ウィンダ」が、信仰する神に殺され、地縛霊に束縛され、そして魂だけがむごたらしくも濫用され、あまつさえシステムを破壊しようとさえするようになった。こんなに気持ち悪い、最低な話があるかい?
 小さな邪悪のかけらたる『シャドール』があれば、その近くの『闇』を喰らって互いのプレイヤーを拘束する悪魔に相成る。ゲーム上でも先兵としてプレイヤーが繰り出すのがこのカードであり、その精神と同様に相手だけでなく自分自身をも縛り上げる。それでいて巫女としての神聖さからか不思議なバリアを付与されている都合でカードの効果からの破壊を受け付けない。それがしかも、かつてダイガスタ・ガルドスでやっていたことをぐちゃぐちゃに乱すような苛烈なデザインにされてね。相棒であったガルドの代わりに風竜星-ホロウのハリボテを与えられて、でもステータスは同じ。つまりシャドールらしく『模倣』させられたんだよね。
 神聖さと邪悪さをここまで上手に両立して、その名前は私の存在意義を表しており、それでいてゲームをするにあたっても非常に完成度の高いカードになっている。こんなに美麗なデザインのカードはそうみられるものではないね」

『早口オタク君もうちょっと抑えて、さっき自分で書いたこと忘れたの?』

もち「忘れているに決まっているじゃないか。何を隠そう、ここにこんなろくでもない文章を書いているのは自分の愛の形を理解させようと必死になっている人へのアンチテーゼなのだから。諸氏が私のこの崇拝を理解できようものかね、というつもりでさえ書いている」

『もう一回訊くんだけど崇拝とか信仰とかっていうのは本気なの?』

もち「ああ、そうだね。そこから話そうか。私にとっては宗教家が信じる神、あるいは天使と同格の存在なのが、ミドラーシュなの。これは確信を持って言えるね」

『宗教入ってもないくせに』

もち「宗教家とは大なり小なり関わってきたから、ある程度のことは知っているよ。少なくとも文化的背景を知らずに『所詮宗教家なんざこんなもんよ』と言っているつもりはない。三大宗教以外もいろいろと調べているよ」

『それで、その人らが言う信仰に、その感情は近いと?』

もち「そう思っているよ。ささげた信仰がその神様本人から返ってくるわけじゃないけど、祈れたという気持ちによって次の心の一歩を進められるように、私がミドラーシュを敬愛する感情があることで自分の存在を一つ確かなものにしているからね」

『なんというか、かなりうがった宗教観に見えるけど』

もち「そこは良いんだ。話を戻そう。【魂写しの同化】のカードを見て欲しいのだけれども、このカードもまた二面性を象徴している。エルシャドール・ミドラーシュ、神の写し身との接触の二枚では一切見えなかった『感情』が見えている。今までの二枚は人形的だったのに、ここに来て人間的な部分が出たんだよ。ここから推察できるのが、苦痛という最も原初的な感覚以外は影依の原核によって幽閉され、それがクリフォトという、自分がかつて信仰した神と相反する存在によって暴かれ凌辱されているということだ。とんでもない二面性と不条理さを表していると思わない?」

『まーた始まったよ』

もち「しかもこのクリフォトにより束縛される原因となったのが自分の名前なのも、とてつもなく不条理だよね。ネフィリムという最悪の地縛霊によってただ一つ残された『意思』によって、ドールマスターではなくドールたる自分が苦痛にあえぐことになるんだよ。あまりにも無情じゃないか」

『自分で話ふったけどかなり疲れてきた』

もち「ミドラーシュの中に存在している二面性は、素晴らしいマーブル模様でもってキャラクター性に顕現している。この類を見ない存在が、わずかに六文字の新たな名前と、美しいデザインのカード効果でもって魂を吹き込まれたのだから創造者様には感謝するほかないよね」

『ソダネ』

もち「これで私がミドラーシュを崇拝する理由が分かったかな?」

『わかるわけねーだろ』

もち「うん、まあそういうことさ。これでも全く言い足りないほどなんだけど、あんまりしゃべると本来の話の部分が掻き消えてしまうからね。これくらいにしておかないと」

『なんでそういうところだけ理性があるかなぁ』

 

【本当に終わり】